もしお前がこの先、うつむき、深くうつむき、その首筋は硬く張り、もう空など二度と見えぬと土くれに向かって声なく嘆くような、そんな日が来たとしても。
思い出すがいい。あの日、パリに吹きぬけた風を。我らが快哉を叫んだ、あのレースを。
* 2009年7月26日 午後11時32分 静岡県浜松市
くっ
クソ!と言いそうになって止まる。自分の力が足りていないのはわかっている。誰に向かって、クソなのか。俺がクソなのか。だから言い止まっているのか。のたのたと歩く足でも、家が近くなってきて、街灯の向こうに見覚えのある車が並びだした。
クソが!
今度は声に出して言ってみた。少し楽になった気がする。でも心の奥に淀んだ空気が残る。俺はクソじゃない。そうも思うから最初に言い止まったのだ。ぜんぜん、全然思うように行かない。今が結末じゃなくて、途中経過だとはわかってる。でも、何だろう。何がこんなにゴロゴロと頭と心の中を転がっているのか。
暗い玄関を入って、急いで靴を脱いで、扉が閉まるまでのこぼれ入る廊下の明かりだけで部屋の奥まで行こうとするが、途中で暗闇が訪れる。机の上にあったリモコンらしきものでテレビをつけた。日曜出勤でがんばっても、何も報われてない気がする。上司は良くやっていると言う。でも給料や昇進に直結するような評価は避けやがる。ダメってことじゃん。
番組はろくなのやってない。日曜はガキの使いが終わったら実質放送終了だ。スカパーに切り替えて、MTVを垂れ流しながら着替える。テンポが速くて疲れる曲が続いて流れる。歯車合わねーな。もう。明日は休んでやろう。風邪をひくのだ。俺は。これから。たぶん明日の朝には39度の熱が出ているだろう。絶対だなこれは。適当なシャツを引っ張り出して、冷蔵庫に残っていた発泡酒を片手に、テレビの前に座りなおす。PVなんて面と向かって1曲以上もたない。ボーっとしてたら昔の洋楽が流れる。アフロみたいなアフロじゃない髪型のボーカルが高い声出してる。チャンネルを送った。音楽、音楽、ニュース、通販、ニュース、野球、プロレス、ヨーロッパ、時代劇…。
ヨーロッパ?
チャンネルを戻す。
自転車のレースだ。ああ、今日はツールの最終日か。実況をやってるのは今中。イマナーカ、だ。声が裏返っている。何?
画面を見直すと、別府史之が逃げていた。
* 2009年7月27日 午後10時5分 埼玉県川越市
別れ話なんて同じ相手と何回もするもんじゃない。とか考えながら、これは何回目?結局結論は出ない。お互いに別れた後が怖いから。どうなるんだろうって思っただけで、はい、結論先送り。無言になって、どちらかが逃げて終了。昨日の夜はヤツが逃げた。明日出張?言い訳よな。遅くまで飲んで二日酔いでも次の日は朝6時半には出勤するじゃん。
ネットサーフィンなんて言葉、あんまり聞かなくなったけどまだ使われてるのかな。私は毎日やってるけど。「いわゆる」ってつけなきゃ違和感がある言葉って、死ぬ寸前らしい。私がやってるのはいわゆるネットサーフィンです。PC画面を寝る前に見たら眠りが浅くなるとか、何の理屈かしら。少なくとも今の私は、いわゆる私は、これをひと通りやらないと眠れない。自分のブログのコメント返して、mixiひと通りと友達のブログと、気になる芸能ニュースをぽんぽんとザッピングしてる。…いわゆるザッピング。mixiのコラムに「彼氏の心が離れる仕草」なんてタイトル見つけて、いつの間にか読みいってる。
もう、しんどいし、いいんですけど。楽に生きたいんですけど。何やってんだろ。やることないなら早く寝ればいいのに。わたし。辛い選択してませんかー。何かにつけて。全部裏目、みたいな。自嘲気味に笑うの慣れたんですけど。それは寂しいことだ。んん…。寂しいのはいやだし、何でそうなるんだろ。
youtubeのお勧め動画が目にとまる。いつもは全然、クリックなんかしたことがないのに、なぜか、なに?
「別府史之シャンゼリゼで敢闘賞獲得1/7」
あ。
敢闘賞とったんだ。
昨日けんかの後にテキストライブ見てて、途中で寝ちゃった。そういやテキストの書き手もテンション高かったな。ツールなんてまともに何年も見ていない。結果はチェックするけど。フミ、逃げてたんでしょ。えらいね。若者は。今年のツールはみんな盛り上がったろうな。うらやましくなって、流れで、さくっと流すつもりで、そのお勧め動画、クリックしてみた。いつか見たような、でもどこか違う、ツールの映像。日本人が走っているからねー。それだけでなんか違う気がするね。シャンゼリゼ通りが近くなるころ、動画も2つ目をクリックしてしまったころ、実況がまた騒ぎ出す。何?何て?全画面で音量上げて見直すと、ちょうど、別府史之が逃げてた。
* 2009年7月29日 午前0時17分 東京都文京区
うちがケーブルテレビ解約した意味がわからない。しかも幸也とフミがツール出場決めた後に、解約て!今までなんら有効活用はしてこなかったけど、このタイミングはないだろ。家族たる息子をこれだけ怒らせて何のメリットが?意味がわからない。しかたなく、部の先輩に懇願して毎回借りてきたDVDROM。1枚借りて、1枚返す、鉄の掟。おかげでツールのビデオを毎日見れる。最初は1日遅れでって言ってたのに、幸也が5位になった第2ステージは丸一日見せてもらえなくて、48時間遅れになったりしたけど、休息日で何とか追いついたり。散々友達やネットでネタバレした映像を確認する感じ。でも、それでも全然見れる。ツール面白い!今日持って帰ったDVDは中でも特別だ。最終日のステージというだけではなくて、フミが逃げまくったステージだからだ。昨日今日のみんなの興奮はありえなかった。2日目でもテンション高すぎ。はやくレース映像みたい!とわくわくする2日間だった。
夜、両親は寝たので、ようやく60インチの大画面テレビが空いた。急いでセッティング。別にAV見るわけじゃなし、超健全だ。むしろAV見てても健全だけど。残念ながら、今日はツールの最終日映像だ。
スタートからはパレード走行だ。シャンパンだって振舞われる。21ステージ走ったんだ。そうかー。日本人が出たんだな。ツール・ド・フランス。当たり前だけど、どの選手も高そうなカーボンバイクに乗っている。この人たちは速いから乗っててもいいんだよな。僕は遅いのに乗ってるから。だからバカにされんのかな。あー。ツール出てぇ。幸也が24歳っしょ?あと7年したら…僕は別人のようになってるんだろうか。なっててもらわないと困るよな。進路とか、知らねー。どうせ適当な大学行くべ。んで、ツールに出ると。はは。
パレード走行はツールのエンディングだ。下にスタッフロールが流れてもおかしくないくらい。ずっと見てたら寂しくなってきた。面白かったなあ今年のツール。満足感なのか、今日のハードな練習の疲れか、まぶたが重くなったころ、画面の雰囲気が変わった気がして、フッと起きる。来た来た来た!これがうわさの、もはや伝説の、別府史之の逃げだ!
* 2009年7月26日 フランス・シャンゼリゼ通り
別府史之が逃げていた。凱旋門に向かって。セーヌ川のほとりを。
アルセーヌ・ルパンが大活劇を繰り広げた、オードリー・ヘップバーンが微笑んでいた、あのセーヌ川のほとりを、別府史之が、先頭を引いて、最後の3人になりながらも、逃げ続けてた。
実況はマンガだって言ってる。フミは、ノノムーラであり、ミコトだ。非現実を貫くのが売りのマンガが、現実に追いつかれてしまった瞬間だ。誰も想像だにしなかった。だから誰も創造しなかった。この、フミと幸也の、2人の日本人が書いた物語。
誰もが「夢のよう」と形容する。夢を現実に、今そこで、その切っ先に立って、変えていっている、日本人が、世界に、世界へ、中継されている、そのカメラに映り続けていて、先頭集団のテロップに日の丸が表示されている。
夢見ていた、夢だからとおおよそ諦めていた、その光景が現実になっている、現実。これを目の当たりにして、平常心でいられるほうが変だ。
本当にもう、僕らは、私らは、できるんだと。これを見ている人全員、そう思ってほしい。
同じ国籍の人間が、到底ムリと思っていた壁を越えていく瞬間。それが自分の目の前でで起こる瞬間。こんな感動は本当に初めてだ。
行ける。
ほら。な。
そんな気がしてくる。
私らは、どこまでも、行ける。
フミが、幸也が、あんなにも走った。
だから、だ。
単純に決めることができる。それだけの理由で100%決定することができる。
だから、僕らは大丈夫だ。行ける。強い。
この感動があれば、絶望の淵なんて何回でも這い出てやる。
おお、行ける、行けるぞ、と。
*
お前がまだじっと見つめるその自らの足先の石に、金色の霜が降りたような光が差す。その光に気づいた時、お前は心が震え、心が奪われ、心から涙するだろう。気が付くとお前は、あの岩のようにのしかかっていた肩の上の何かも忘れ、前を向いている。そして遠く、遠くに広がる地平を見渡し、息を呑む。なんと広大な世界か。なんと自由な自分か。そこに吹く風は、お前の背を押すだろう。そこに流れる雲は、やがてお前が行く先の彼方へと消えるだろう。
進め。
もう、うつむくことはない。
進め。
(了)